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音楽好きの読書と買い物メモ

Searching For the Sound

Searching For the Sound

Author: Phil Lesh

資料的な価値を求める人や、トリヴィア的なネタを求める人には、この本は少し読み足りないかもしれません。本書では、フィルが問わず語りのように、訥々と語りかけるような流れで全体が構成されています。彼は自分の生い立ちから、音楽との出会い、バンドとの出会い、各種の出来事(ウッドストック、オルタモント、ピッグペンの死、今の奥さんとの出会い、子供の誕生、ジェリーのことなど)を、時代順に語っていきます。
実際に、この書籍は曲名や人名などのインデックスも無く、各章ごとの小見出しすら無いという徹底振りです。同時発売のCDブックでのフィルの朗読を聞きながら読み進めていくと、その「問わず語り」感は強くなります。「うん、そう、それから子供が生まれたんだ。あれはすごい体験だったね」という話を、同じ部屋にいるフィルから直接聞かされるような、そんな文体です。

もちろん、本文の中にはトリヴィア的な発見があることも事実です。初めてフィルがメンバーたち(この時点ではThe Warlocksですね)と一緒にリハーサルをした時に演奏した曲は何か?、グレイトフル・デッドというバンド名をつけるきっかけになった英語辞書は誰の持ち物だったか?、ダン・ヒーリーがバンドを辞めた理由は何か?、"Unbroken Chain"を演奏するようにフィル薦めた人物は誰か?などなど....。ただ、この書籍の意義は、そうした裏話的なものではなく、フィル・レッシュという一人の人間が数奇な運命に操られるように、音楽や多くの人々に出会い、現在まで生きてきたということです。そして読了後にまず僕が感じたのは、フィルがこの世界のどこかで生きていて、今も音楽活動を続けているという確固たる事実でした。

さて、デッド関連の書籍を読み進めていくと、後半がどんどん辛くなってきます。それは95年のジェリーの死について、誰もが避けて通れないからです。僕にはかねてからデッドというバンドに対する疑問がありました。それは、ジェリーの体調がどんどん悪くなっていくことを、誰もが分かっていながら、デッドとしてのツアーを止めようとしなかったことです。本当であれば、94年の早い段階ですべての活動を止めて、ジェリーをリハビリに専念させるべきだったのです。そのことは、デッドに近い関係者であれば、誰もが語る事実です。
しかし今回のフィルの話を読んでいると、それを止めることはフィル自身にも、そしてメンバーの誰にも出来なかったということが語られています。とにかくこの95年という年、バンドは疲れ果てていました。会場ごとに繰り返される暴動まがいの騒ぎ。警官と観客の小競り合い。ジェリーへの脅迫事件。会場周辺での観客の事故死。もう何もかもが暗い穴に落ちていくように、すべてが不吉なままに、なす術もなく、ただショーだけが淡々と繰り返されていたのです。

もちろんフィル自身も、ただジェリーを傍観していたわけではありません。90年以降のあるミーティングでは皆の前で、薬物依存の度合いを深めるジェリーを罵ります。ただ、そうしたことを何年も繰り返すことに、皆が本当に疲れてしまったのでしょう。まるで伝説上の生き物が、ただただ自分自身の巨大さのために、死のカーブを曲がりきれなかったような、そんな最期だなと。僕にはそんなふうに思えるのです。

本文の中でフィルは何度も、ジェリーをいつも目指していたと語っています。言葉を変えて、何度もそのことが語られています。でも、そのフィルにしても、もう最後にはジェリーが死に近づいていることを諦めてしまっていたような、そんな気がするのです。
最後のショーとなってしまった95年07月09日シカゴのショーで、"Unbroken Chain"の後、"China Doll"を演奏しようとするジェリーをさえぎるように"Sugar Magnolia"の演奏を始めるボビー。アンコールの"Black Muddy River"に「これでショーを終えるのは辛すぎる」と考え、"Box of Rain"を演奏したフィル。それがメンバーに出来るせめてものことだったとしたら、それはあまりにも悲しすぎます。

蛇足ながら。
これは意地悪な読み方かもしれません。でも本書で、ただ一つ気になった点は、メンバーに対して(特にボビーに対しては)否定的な意見がほとんど書かれていないということです(中扉にもボビーと一緒の愛情豊かなスナップ写真があります)。これはフィルの性格がそうさせるのでしょう。そして今後もThe Deadという形でバンドを続けていくためには、そうした配慮が必要なのでしょう。本来であればThe Other One時代にあったボビーとの確執、初期のバンドで半人前扱いだったボビーのことなど、まったく触れられていないことは何だか不自然であるなと思いました。でも、それは当事者であるために語れないことなんだろうなと、そんなことも考えてしまいました。