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音楽好きの読書と買い物メモ

クイーン・映像作品「ボヘミアン・ラプソディ」に関する考察



はじめに


2018年公開の素晴らしい映画。ただ、わずか2時間の中にフレディ・マーキュリーという稀有なる人物を収めようとしたために、所々で史実と異なる、いわゆる「創作」が盛り込まれているのも事実です。
もちろん、あえてそれらのあれこれをあげつらう必要はないわけですが、割に重要な部分でもそれらが映画の重要なエピソードとして語られているので、それらを真に受けて、誤ったエピソードがまるで事実のように独り歩きするのも、一人のクイーンファンとして危険なものを感じたので、その辺りは簡単に史実を正しておきたいなと思った次第です。
なお、あくまでも念押ししておきたい点は、それらの創作部分があったとしてもそれらは、この映像作品のクオリティを損なうものでは決してないということです。
本作品はこの手の作品としてはかなり丁寧に、事実を尊重した上での映画製作であったと断言できますし、何より制作スタッフからの「クイーン」への愛情を強く感じた作品でした。その点だけは留意願います。
※このまとめには映画のネタバレがあります。映画の内容を事前に知りたくない人は読まないでください。


ファーストアルバム制作時のエピソードに”Seven Seas of Rhye”


あれっと思ったシーンでした。トライデントスタジオと思われる(ディレクター役の人物が「ロイ」と呼ばれていたので、これはトライデントでしょう)スタジオのレコーディング風景に、後のセカンド・アルバムに収録される"Seven Seas of Rhye"のボーカルバージョンがBGMとして流れていました。
この点に違和感を感じた人も多かったかもしれませんが、実際にはファーストアルバムの制作期間中(1972年夏)に、後のアルバムに収録される"White Queen"、"Ogre Battle"、"What A Fool I've Been"、"Seven Seas of Rhye(Vocal Version)"が作曲されています。そのためあのレコーディングの時点でこの曲が録音を試みられていても何の問題もありません(実際にインストバージョンはアルバムに収録されたわけですから)。ただ、せっかくの最初の録音風景の映像なので、もっとファーストアルバムを象徴するような曲がBGMの方が良かったかもしれないですね。


Bohemian Rhapsody”録音前のアメリカツアー映像で、"Fat Bottomed Girls"が流れる不思議


さすがに擁護のやりようもない話ですがBGMとして流れてましたね。選曲としてはおかしなBGMでした。
クイーンの初めての単独でのアメリカツアーは1975年01月31日スタート(30会場38公演)です。ちなみに"Fat Bottomed Girls"のシングルとしての発売は1978年10月。収録されている"Jazz"アルバムの発売も1978年11月なので、まあ明らかに時空に歪みが生じてますね。あくまで個人的にはですが、映画のかなり早い段階でこの映像とBGMが出てきたので、「俺たちはそこまで史実にはこだわらないからね。おとぎ話的な要素もあるからね」という制作サイドからのメッセージかなと、個人的には思いました。
また、まだレコード契約前の時期にメンバー全員でフレディの実家でくつろいでいる時、場の気まずい雰囲気からフレディがピアノで自身に向けたハッピーバースデーソングと"Lazy Sunday Afternoon"の一節を歌うシーンもありますが、この辺りにも時空の歪みを感じますね。

なおアメリカツアーの予備知識としては、その前年の1974年04月からモット・ザ・フープルの前座としてアメリカツアーに出ていますが、これはブライアンの肝炎により途中でキャンセル。また帰国後に再び、ブライアンの十二指腸潰瘍により同年09月から予定されていたアメリカツアーも延期されました。

ついでに書いておきますが。ツアーのダイジェスト映像として、多くのカットが編集された場面で一瞬ですがブライアンがギブソン社のレスポールを弾いているカットを観ることが出来ます。ただ、これは一概には間違いとは言えません。というのはブライアンはレッドスペシャルの予備として、当初はフェンダー社のストラトを、後にギブソン社のレスポールを(正確にはミニハンバッカーが搭載されているLes Paul Deluxeを)予備として使っていた時期がこの頃(1975年)です。製作サイドが分かっていてレスポールを持たせたのか、分からずに持たせただけの偶然なのか、なんとも判断に苦しむ「引っ掛け問題」のようなカットですね。
そういえば、YouTubeの予告動画でブライアンがバイオリンの弓でギターを弾いているカットがありますが(本編では使われなかったカット)、あれはさすがにフィクション。ブライアン・メイ自身も「僕はあんなことはしてない。やってたのはジミー・ペイジ」と否定してます。


メアリー・オースティンに対する求婚とカミングアウト


映画の中でメアリー・オースティンにまつわるいくつかの印象的なシーンがあります。特に1981年の南米ツアーと思われるショーで"Love Of My Life"を歌う自身の映像を二人で見ながら、自分はバイセクシュアルであると告白するシーンは、強く衝撃を受けるシーンです(メアリーは即座に「違う、あなたはゲイよ」とフレディに言い返します)。
先にこれだけは話しておきますが、メアリーとフレディ、彼ら二人きりの場面で、実際には何が話され、また何が話されなかったかというのは永遠の謎です。メアリー自身が何一つそうした話をしていませんし、今後もそうした話が彼女の口から出てくることはないでしょう。
ただ彼らの親しい友人たちから証言で、既成事実として知られていることは、1)フレディはメアリーに確かに求婚をした。2)2人が婚姻することはなかった。3)フレディがゲイであることを知った上でも二人は良好なパートナー関係を続けたということです(メアリーは後に別の男性と結婚し子供を授かりますが、フレディとの友好関係はその後も続きました)。ミュンヘンで自堕落な生活をするフレディのもとに駆けつけ、彼に意見するシーンはさすがに創作だろうけれど、でもデビュー前から彼を支え続けた彼女はフレディにとって、一つの指標であったのだろうなとは思います。その点で映画の中の彼女の存在感の強さにはある種の説得力があると思います。

なお最初期のデビュー前のあれこれ(前身バンドSmileからベースが抜けた日にフレディが自分を売り込んだり、その直前にメアリーとすれ違ったり)は、当然ながら話を進めるための創作ですね。ただメアリーはフレディと出会う以前にブライアンと付き合っていたというのは定説です。


最後の恋人、ジム・ハットンにまつわるあれこれ


フレディの最後の恋人で、後に「フレディ・マーキュリーと私(原題"Mercury And Me")」を記したジム・ハットン。何よりも演じる役者がそっくり過ぎて、映画を観ていて驚きましたが....。

ジム・ハットンに関する映画の記述の大半は創作です。彼の書籍にもある通り、フレディとの出会いは1983年の年末、ロンドンのパブでフレディが彼に声を掛けたことでした(その時点では交際に発展せず、実際にパートナーとして過ごし始めるのはその2年後)。紆余曲折ありながら、フレディが亡くなる1991年まで6年近く二人の関係は続いたし、いくつかの書籍を目にする限りでは(フレディから多くの遺産を受けながらも)彼を悪くいう人物はあまり見かけません。非常に控えめで思慮深い人物であったことは事実なんだろうなと思われます(ただメアリーは彼のことをひどく嫌っていたという意見もあります)。
映画の中では、フレディの屋敷に雇われた使用人として登場しますが、実際にはホテル内にある美容室の美容師です。また映画では"Live Aid"の当日に彼を探し当てたフレディが、実家の両親の前に彼を連れていきますが、これも当然ながら創作です。ジム・ハットンに関するエピソードで映画の中で事実に基づいている部分は、"Live Aid"の当日にフレディに同伴し、舞台袖から実際の演奏を観ていたということくらいでしょう。

映画の視聴後に、そこまでの創作を積み上げてまでジム・ハットンにまつわるエピソードを取り上げる必要があったのだろうかと思いましたが、ゲイであるフレディを肯定するためには、その救い主としてジム・ハットンという人物を取り上げないわけにはいかなかったのだなと、少し考えてから納得しました。彼を登場させなければ、フレディのゲイである側面は、何一つ救いようのない話で終わってしまいますからね。


メンバーへのエイズであることのカミングアウトについて


フレディが果たして自分がエイズキャリアであると自覚したのはいつか?
この点については諸説ありますが、フレディにエイズの諸症状が出始めるのは1987年~1988年頃というのが定説です(HIVのキャリア判定で陽性が出たのは1987年というのが定説です。またエイズの潜伏期間は平均的に10年程度。1985年の"Live Aid"の時点で自覚症状まで出ているのはやや考えにくいですね)。

またブライアンたち、メンバーの証言ではフレディ本人から「エイズに罹患している。もはや時間が少ない」と協力を求められるのは、アルバム"Miracle"制作前のミーティングの時点です。映画のハイライトを"Live Aid"に据えて、ドラマチックにするためにリハーサルの時点でメンバーにカミングアウトをしたとする点は、明らかに創作だろうと思われます。
(※)一部書籍では、フレディからメンバーへのカミングアウトは最期までなかったと記載されているものもあります。

また"Live Aid"の前に実家に立ち寄り、ジム・ハットンとの関係を両親の前で匂わせるシーンがありますが、フレディは亡くなるまで両親に対しては自身の性的な趣味や嗜好について話すことはなかったというのが定説です。(ただし両親が"Live Aid"の当日のテレビ映像を観たというのは事実です。フレディの母親は後にインタビューに答えて「息子が誇らしかった」との発言をしています)


Live Aid”に関するあれこれ


1985年07月13日の"Live Aid"がこの映画のハイライトシーンでした。実際にかなり高い再現率で、映画を観ていてもまるでステージの上に迷い込んだかのような錯覚を覚えるほどのクオリティです。
この"Live Aid"にまつわる映画のエピソードで明らかに創作されていた点を3つ。
1)"Live Aid"への出演をめぐってロジャーが「もう長いことライブを演奏していない」と話すシーン。
2)"Live Aid"への出演依頼が側近の人物によって隠されていた点(またメアリー・オースティンから話される点)。
3)当日のライブに4人でステージに駆け上がる点。
4)舞台の真下に作られたカメラマン用の雛壇の幅が狭すぎる。

1)については前々月の1985年05月まで精力的にツアーをしています(ちなみにジャパンツアー)。これは1984年08月から始まった"Works Tour"の一環としてです。また同年01月にはリオで30万人近い観客の前で演奏をしています。そういう意味では最初のオファー時点で"Live Aid"に対する強い期待感をメンバーは誰も感じていないようですし、実際に最初のオファーに対する各メンバーの反応はかなり鈍いものでした。
2)実際のオファーについては諸説ありますが、いずれの説も共通しているのは1985年05月のジャパンツアー中にメンバー間で出演依頼を承諾したということです。
なおオファーにまつわる諸説は、○ツアーメンバーのスパイク・エドニーがボブ・ゲルドフから頼まれてメンバーにコンタクトを取ったという説。○ボブ・ゲルドフが日本ツアー中のメンバーに直接電話を掛けて直談判したという説。○ボブ・ゲルドフがマネージャーのジム・ビーチに相談したという説などがあります。
3)実際には当時のサポートメンバー、スパイク・エドニーもステージに上って一緒に演奏しています("Radio Ga Ga"の最初にシンセのメロディが聞き取れますよね)。
4)YouTubeでクイーンの動画だけを観ているとわかりにくいですが、実際のカメラマン用の雛壇はもっとずっと横幅が広いです。その辺りはLive AidU2の動画を観ると実際の雛壇の様子がよく分かります。

重ねて申し上げますが、だからといって、この映像作品のクオリティの高さには問題ありません。本当に素晴らしい作品ですので、その点は各自ご理解願います。


関連リンク


Queenをキチンと聴きたい人のためのアルバム解説<その1> - NAVER まとめ


Queenをキチンと聴きたい人のためのアルバム解説<その2> - NAVER まとめ


Queenをキチンと聴きたい人のためのアルバム解説<その3> - NAVER まとめ


Queenをキチンと聴きたい人のためのアルバム解説<その4> - NAVER まとめ